疲労して披露する

 はやいもので、今年も三分の一が突風の様に過ぎ去ってしまった。去年今年と本当に他人(ひと)とは会う機会も減って、只々黙々と仕事をしている。極細ながら、わたしどもの作り出すものたちに声をかけてくださる方がいる限り、むげには出来ない。

とは言うものの、たまには人様と「話」をしてみたくなるのも人情だ。今朝TVを点けて見ると「コミュニケイション」について、アンウンサーと女性作家が対談をしていた。

要するに、現代はスマフォで全てを処理してそれで完結している世情で、対面して会話をする事自体に苦手、恐れを先ず抱いている人々が多数になってしまった、という事だ。何とも由々しき事だ。

誰しも、まして初対面のかたと話を切り出すのは、得意ではないだろう。特に現代においては話し言葉、書き言葉の境が不明な時代ではなおさらの事だ。そのうえ、その内容によっては、絵文字、アイコン等で済ませられる事も少なくない。どんどん人としての在り方が簡略化されている。

こんなどこの誰だかわからぬ者が記したブログを始めとしたSNSの氾濫もその勢いを助長させている。誰もが体のいい「作家」だ。いい時代になったものだと思う。ある種の見えない「仕切り線」が除去されてしまえば、かなり豪放磊落になれるもの、を現代は実践している。心苦しい事、言いづらい事、見て見ぬふりをする事、これらすべてを無いものとしてしまう。おそろしいことだ。

自分に都合の良いように自国民を説得し他国民を殺傷する。集められるだけ金を集めて私腹を肥やし、都合が悪くなれば此処ぞ逃げ時とトンずらを決め込み、よせばよいのに最後にバカヤロウと自国民に、イタチの最後っ屁よろしくの老いぼれ政治屋等々.....まぁまぁよくぞこれほどの小悪党大悪党が世界至る所で噴出してるものだと思う。

愚痴はまずこのへんにして、今年も再び私の住み暮らす町益子の春の陶器市が近づいている。(4/27~5/6の十日間) 昨年秋口に長年使用した窯のひとつを廃炉にした為、仕事の手順がだいぶ変わり、あたらしい仕事のリズムがなかなか出にくく、そのわずらわしさに日々を重ねている。30年以上続けたリズムを変えるのだから、さもありなん、である。そのうえ、よせばよいのに、根詰め作業をくりかえしている。ひとつものが出来るまで手順が多いものつくりの事だ。

粘土を叩き広げる、数ミリの誤差を気にする、こういった作業は精神的にも肉体的にもかなり堪える。わるいことにそれらの仕事が嫌いではない、という事。もっと若いころにこれらの仕事分野をとらえておけば、とも思ったことがあるが、まっ、ここまでの私だけの時間割なのだろうから、それはあきらめている。とうに高齢期にはあるが、体を気遣い日々の仕事を楽しむようにしている。

人との交流もほぼ無くなった今、期間中どういう方々と触れ合う事が出来るのか、気分の中で期待している。欲を言えば、やきもののことをもう少し知ってる方々が増えてくれるといいなぁと思う。いずれにせよ、陶器市も現代風にどんどん進化の度合いを深めている。あと何回参加できるかはわからないが、私なりに勤めあげたい。だいぶくたびれてきましたが,皆さんに作品を見て頂きたい。ただそれだけである。

拙文を読んで下さった方々に感謝しつつ、今回この辺で失礼します。いずれ又そのうちに。

※写真はイメージ。 飼い猫の楽(らく)散歩途上にて。



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