三昧(猫とSHと女房と)

 猫とSH(シャーロックホームズ)と女房と。

何?と思われるだろう、多分。

コロナという厄介なウィルスがこの地上に発生して以来、それまでの各個人個人の時間割が止む無く変更するのを、余儀なくされた。現時点では、”コロナ以前”云々という言い方を耳にする程になってきたが、多くは良くも悪くも変化に惑わされた。

御多分に漏れず小生も同様だ。当地以外にまったくどこへも出かけなくなった。かなりそれは苦になるかと問われれば、全然、である。元々こういう仕事ゆえ、仕事場に入り常時黙々と只々作業工程の少なくない仕事を続けている。しかも、良いか悪いかは別として、事に集中出来るようになった。今までそうしていなかった、というわけでは無いが。

今月はどこそこで新作発表展がある、来月はここでこの様な催事が待ち構えているから、窯焚きはいついつまでに完了していなければならないetcetc.....。このような時間が一切消滅してしまった。

ゆえに、心おきなくとことん自作にとりくめる。多くの方々に作品を見て頂けない、久しぶりの友人たちとの談笑が出来ない等の不満もあるが。今現在は本当の意味で、すきなものをすきなだけ時間をかけてつくりあげている。何事にも代えがたいのだ。

煩わしい雑音に耳を貸す必要もなく、ひたすらに己とその周囲の時間を大切にしている。正月そうそう起きた未曾有の出来事を思えば心も痛むが、今自分はここにあることを大切に思い、残された時間を大事にしたい。

うちに縁あって来た猫も今年で13年になる。私どもの仕事の概要も、大まかにではあると思うが重々承知している、ようだ。会話は無論できないが、問えばひとことニャーと返事はしてくれる。のんびりしているのは、何よりも此処の環境だろう。よきかな。

読書が若い頃から好きである。年々溜まってゆくかなりの量の書籍を去年思い切って処分した。隣町の図書館がそれらを引き取ってくれた。私が住み暮らすこの町には残念ながら図書館と呼べるところが無かったので。そんな中、シャーロックホームズ(SH)の全集だけは手放すことが出来ず、未だ手元においてある。映画でもいえる事だが、積年経ても良き作品というものは、いつ見返しても必ず何か新しい発見がある。本も同様だと感じる。世にいうシャーロキアンではないにせよ、SHという作品は興味深い。時折その原文というものにも,pcをとおして接する事もあるが、いけません。語彙力が無さ過ぎる。ギブアップ。いわゆるバディもののパイオニア的存在であるこの作品群。英ヴィクトリア朝期の元、雰囲気は万全である。ホームズワトソンの丁々発止のセリフのやり取り、各事件のディテール、ストーリーの展開、確かに100年以上も時を経ているので、まどろっこしくも感ずる点も無きにしも非ず、ではあるが。読み返すほどに新発見もある事が又楽しい。アイリーンアドラーはやはり謎多き女だ。(わかる人にはわかるのだが.....)

わたしにとってのアイリーンアドラーは、狭義に於いて我が女房殿である。生意気にも(苦笑)亭主を手玉に取り、その亭主の半歩先一歩先を行く。それが又心憎いのである。が、良い意味で言っているのであるから間違いはない。凡そものづくりの世界に住む男と一緒に生活するなど、まともな神経ではくたびれ果ててしまうと想像できる。そんな伴侶のすべての時間を把握して、逐一判断して日々を暮らしていくのは至難の業、のはずだ。やきものやの仕事のすべての理解者はその女房殿である。断言できる。あなたという存在が無ければ、わたしは只のボロカスである。

そんな諸々の者たちに囲まれながら、今日も又がんばっている。人生に与えられた時間は思うほど長くはない。ものづくり界の端で生き終えるには、やはり今よりすこしでも良いものを残しておきたいという願望の表れである。やきもの三昧の日々の暮らし。丁寧に丁寧にをモットーとしながら。


※写真は例によってイメージです。



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