時間という概念は永遠にあるのだろうけれど、ヒトとして産まれてヒトとして生きていくには限られたものとなる。真面目に生きようが自堕落に生きようがその人次第。生き方と言うのは自分自身でコントロールしなければならない。一生は短くもあり一生は長くもある。難儀なものだ。
いきなり「握り寿司」の画像を載せた。さして深い意味は無いのだが...。このネタを食べたいあのネタを、と指定するに任せて色々とごちそうになる。満腹になる。幸せな気分になる。とまあ安直な寿司談議になればよいのだが、実は本来の目的である器を見て欲しく、この写真を冒頭に載せたのだ。
銅鑼鉢(どらばち)という。食器のひとつの名称だ。浅鉢といった方が分かりやすいかもしれない。要はこの鉢を見て欲しくて、あわよくば購入して欲しくて、食材盛り付けなどという姑息な手段で臨んだのである。これもひとつ、やきもの屋としての性なのだろう。そう、私はやきもの屋なのだ。人様が呼ぶところの陶芸家、クリエイター、陶工、etc。呼称は様々だ。要するに毎日粘土を練って轆轤を回して器を形づくり、又、美を感じさせる作品を飽きもせず作りつづけて、納得のいくものを窯に入れて、高温で焼き上げる仕事をしている人、なのだ。文字どおり泥にまみれて汗にまみれて、ひとつ作品を完成させるまで長い時間をかけてする作業なのだ。よくもまぁこの様な「仕事」を続けてきたものだ。来年でこの道に入って半世紀になる。自分でも信じられない。
高校生の頃、だろうか。聴いていてもさっぱり解らぬ化学の授業を受けていて、「あぁ、何かひとつことをじっくり続けて生きていきたいなぁ...」という思いがこの今の「やきもの」に結びついたのかもしれない。
師匠のお宅に住み込み、日々やきものの知識を積み重ね、自分なりに切磋琢磨してどうにか基礎固めをして、いよいよ独立の運びへとなるのだが、此処までも又これから先、現在に至るまでも、ほんとうに様々な方たちの応援があったからこそ、どうにか歩んで来られたのだというのが偽りのない今の自分の気持ちである。有難い。有難し。感謝のみ。
50年も同じことを続けていて、一体何者になっているのかは自分ではわからない。でも、心の内では、あぁでもないこうでもないの言わば半信半疑な事も含めて、その作業に関して「考え続けて」こられたのが一番うれしい。ヒトは考える生きものだ。少なくともそれは出来たかな。多くの素晴らしい友人たち知人たちに囲まれて、自分なりのやきものの世界観を形作っていられること、誠に幸せなことだ。流石にここまで歩んでくると、いつなんどき急に倒れてもおかしくはない。追及精神を忘れずにまだまだつくり続けたい、が、やきものは肉体労働。じぶんの体をかんがみても相当に中身はボロボロになっていると思う。病気ひとつせず、どうにか健康維持してはきたが、これからはだましだまし使うしかないだろう。臆せず生きたいものである。
まとまりのない今回の記述だが、お許しを。タイトルの「シトゴノヤンイウコ」。コウインヤノゴトシ=光陰矢の如し、である。最後までたいへん失礼しました。
また次回!

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